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2020/06/30

不動産屋という仕事

6月最終日。
一昨年解散した有限責任事業組合ボンクラ設立時に大変お世話になった、平和土地不動産の萩野さんが、定年退職されるという知らせを聞き、花束を持ってごあいさつに行ってきました。
萩野さんがいなければ、カネマツもボンクラもたくさんの出会いも、そして今の自分は存在していなかったと思えるほど、大きな影響をくださった人です。感謝しかありません。
本当にありがとうございました。そして、おつかれさまでした。

5~6年前に、ボンクラ本をつくろうと、”ボンクラをつくるまで” を書いた原稿があります。
結局、本はつくられず、原稿も日の目を見ることが無かったのですが、せっかくなので、この場で紹介したいと思います。

ボンクラをつくるまで
2006年9月、会社を辞めて個人で設計事務所を開設した場所は自宅の一室でした。自宅といっても郊外の借家です。

基本的に机に向かって図面を描くことが仕事の大半を占めていたので、とにかく人と会う機会が少ない。
なんとなく寂しいな、という気持ちがあったのかもしれません。
独立をして一年ほどが過ぎた、2007年の暮れ、必要に迫られたわけでもなく「そうだ、まちなかに事務所を構えよう!」と思い立ち、権堂にある元薬局だったという空き家に目を付け、大家さんと交渉。

結局、その物件をお借りすることはできませんでしたが、その時に出会ったのが上千歳町にある平和土地建物(株)の萩野さんでした。

時は流れ2009年の6月、相変わらず仕事場は自宅でしたが、すっかり「まちなかに事務所を構えたい」なんて思っていたことを忘れていた頃、約一年半ぶりに平和土地建物の萩野さんから電話を頂きました。

「東町にある元工場なんだけど、宮本さん事務所にどう?」

「どう?」って、工場と言うからには、かなり大きいだろうに。
こっちは個人事務所にしたいと相談していたのに無茶振りだなぁ、と思いながらも先ずは建物を見させていただくことになりました。

 今、思えば、不動産屋さんのこういう突飛な声掛けのセンスは、職能なのだと思い知らされましたが・・・。

 前置きが長くなりました。

それが元ビニールの加工工場だった「ビニールのカネマツ」と出会うきっかけでした。

 「ビニールのカネマツ」は、予想通り個人事務所として使うには、大きすぎる建物でしたが、初めて見たときから一目ぼれでした。

市街地で善光寺に近い場所ではあるけれど、人通りが少ない裏通りに位置し、常に大きなシャッターが下りている蔵造りの外観をもつ「ビニールのカネマツ」。
内部はビニールの端材や加工機械が、所せましと置かれていて、ビニール同士がくっつかないように撒かれた大量のコーンスターチが降り積もっていました。
萩野さんに案内されて建物内に足を踏み入れると、その、うす暗い室内にコーンスターチ舞い上がり、天窓から落ちる光をいっそう際立たせ、幾筋もの光の柱が、大げさに言えば神々しくも見えたのです。
不動産的にも建築学的にも、あまり価値は無い建物でしたが、この建物にできる精一杯の歓迎をされているようで、その時は、なんだか親しみやすい魅力を感じました。

しかしながら、自分には広すぎる。でも、なんとかしたい。
そんな気持ちから、その頃、
一緒にツリーハウスをつくっていたデザイナーの太田さんにも声を掛け、しばらくは、2人で誰かこの建物を使ってくれる人がいないか探したりしていました。

 いろんな人に紹介してみましたが、その古さと広さ、ごみの多さから、手を挙げてくれる人は誰もいませんでした。だけど何度も「ビニールのカネマツ」に訪れるうちに、建物に対する愛着は大きくなり、自分自身でやってみたいと思うようになったのです。

そのことに、太田さんは何の疑いもなく無条件に協力してくれました。

家賃や工事にどれだけの費用が掛かるのかだとか、どんな仕組みで、どんな準備をしたらよいのかとか、そもそも何をどうしたいのかとか、問題を棚上げにしたままのスタートでした。
ただただ、この建物が気になってしまったからという理由なのに。

世間一般からは見向きもされなくなった建物を、自分の他にも魅力的だと思って汗を流してくれる人がいる。
そのことは、一歩を踏み出すうえで、たいへん大きな勇気になりました。

そのうち、元同僚だった建築士の羽鳥さんも、うっかり加わり、3人で取り組むことになりました。

大家さんとの交渉が済まないうちに太田さんはプロジェクトのチラシをつくり、私と羽鳥さんは建物を実測して既存の平面図をつくったり、3人で少しずつ掃除を始めたりしていました。

お金になるわけでもなく、頼まれたわけでもなく、何に突き動かされているのかわからないけれど、とにかく楽しい毎日。まだ仕事が少なく暇だったのだと思います。


2009年8月。広瀬毅建築設計室が主催する飲み会に参加したとき、太田さんがつくったチラシを配り、意気投合したことがきっかけで、最初の三人に加えて、広瀬さん、山岸さん、古後さん、山口さんの4人がプロジェクトに参加することになりました。
それがボンクラのメンバー7人です。

そして、9月に太田さんと行った「横浜クリエイティブシティー国際会議2009」も、プロジェクトを進める大きな原動力になりました。

ワークショップでは、たまたま同じテーブルについた、東京R不動産の馬場正尊さん、Co-Labの田中陽明さん、紺屋2023の野田恒雄さんという豪華メンバーに、プロジェクトの相談にのってもらえたことは、自分たちの住むまちを外から眺めてみる事の大切さにあらためて気付くことにもなりました。

帰りの高速バスの待ち時間に入った横浜の喫茶店で、一刻も早く長野に帰ってプロジェクトを進めたいと、太田さんと興奮気味に話していた事を今でも思い出します。

その後は、あれよあれよという間に、いろんなことが決まって動きだしました。

「ビニールのカネマツ」という建物をきっかけにして集まったメンバー7人は、世代も職業も違う者同士でしたが、“いいな”と思える感覚が似ていたからだと思います。

 

確かにここに存在していたけど、見えていなかった「ビニールのカネマツ」という建物の発見。すべてはそこから始まった気がします。

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